活 躍 す る 同 窓 生



 
 大塚友美(高34回)  浜松西高万歳!

 私が西高に在校していたのは、1979年からの3年間です。朝は徳光さんの「ズームイン!朝」を見ながら学校に行く支度をして、佐鳴台の県営住宅から徒歩で登校。
洋楽バンドにかぶれていたので英語が好きだった半面、数学はどんどん苦手になりました。数学問題集「オリジナル」のテストでは5点を取って、零点の同朋に「往生際が悪い」と言われて互いに大笑いしたことを覚えています。
放課後は、当時は町の重要な遊びスポットだった「西武」に行って、イベントと屋上散策。町には「ルビーの指輪」や「いとしのエリー」が流れていたっけ。週末の楽しみは「オレたちひょうきん族」。アニメ「ヤマトよ永遠に」をきっかけに、にわか天文学に首をつつこみ、純愛思想もしっかり植え付けました。高校3年の時には、野球部が県大会で優勝しました。あまりの喜びに球場で練り、バスの中で練り、小雨の降る中運動場でも練っちやったことを思い出します。YMOのテクノミュージックが流行り、モノトーンの色彩と機械の冷たい肌触りも感覚に残っています。
 この3年間で培ったものの中で、一番大きなものが「連帯感」だったと思います。2年生の時のクラスはハチャメチャでした。クラスメイトは、それぞれが漫画の主人公になりそうなほどの個性派ぞろい。いいも悪いもちゃんとその人の個性として認め、笑って肯 定するおおらかさを皆が持っており、私は中に居させてもらって、その大切さを教わりました。
普段はクラスメイトがてんでばらばらな方角を見ているような感じでしたが、合唱コンクールや文化祭の準備になると違いました。
皆が一人の指揮者を見つめ、文化祭のテ ーマを見据えて目標を達成していく経過は感動的でした。なにしろあのHRが、合唱コンクールで校内最優秀賞に輝いたのですから。「連帯感」を深く強く感じとった時期でした。
中学時代は、自分以外の人や世界を見ることについては幼く、大学時代は、自己の専門分野を開拓するなど、「個」を追求せざるを得ない時期です。この高校3年間が、一番連帯感を築きやすい時期だったのだろうと思います。また西高は、それを育てる校風がある、特別な高校だったのではないか、とさえ思います。そうでなければ、卒業して数十年が経っても、また世代を超えても、「浜松西高にいた」ということだけで、一瞬にして人と人が繋がるような感覚が湧きあがってくることを、どうにも説明できないのです。
 私の経歴に戻れば、西高卒業後青山学院女子短期大学に入学。そこで好きな英語をみっちり勉強する予定だったのですが、この時にフラメンコに出会い、25歳で導かれるようにスペインに行き、帰って来ては仕事に恵まれ、フラメンコ舞踊家としての人生を歩んでき ました。
十数年にわたり東京で研鑽を積み、2000年、子供を授かったことを機に浜松に舞い戻りました。  2002年の新春の集いは、私たち34回卒業生が幹事でした。同級生は私にアトラクションを任せてくれて、フラメンコ公演をグランドホテルで行いました。息子を浜松祭りの初子祝いに出した経験から、「子供の誕生を多くの人が輪を囲んで祝うスピリットは、フラメンコのそれとまるで同じ」という信念のもと、フラメンコと浜松祭りのコラボレートを初めて試みたのがこの公演でした。その後もこの試みに観客の共感を得て、また日本のフラメンコ界でも実績を積み重ねたことを認めていただき、昨年は「平成年度浜松ゆかりの芸術家」として顕彰していただきました。今年3月には、その記念コンサート「大塚友美フラメンコリサイタル〜祭練りを迎えて」を公演。再び浜松祭りとのコラボレートを練り上げて、フィナーレとしました。やいしょおいしょも、オレー!も、大切な人の存在を祝福するための掛け声です。
 私がテーマとしているフラメンコは、「大部屋のフラメンコ」です。今やワンルームマンションで一人一台携帯電話を持ち、ファストフードを食べながら作品を作ることだってできます。近代化は、個人の快適さを追求する方向に向いているのだと思います。しかし、普段は個室にこもりがちであっても、たまには大部屋に戻りたくなる時もあるのではないでしょうか。一年に一度の浜松祭りには、そこかしこに「組」という大部屋ができます。そこに老若男女が一斉に集い、子供の誕生を全身で祝う事は、なんと人間味あふれる祭だろうか、と毎年感動します。 私がスペインでジプシーたちに習い、見て感じてきたことも これと同じなのです。
 私は、自分の周りにキラキラと輝く仲間がいて、みんなと一つのことをするのが好きなのかもしれません。あれれ?これって、高校生の時の私と同じじゃない?私の基盤は、西高の仲間が作ってくれたんだわ…みんなありがとう!それから、先輩後輩の皆さんも、折りにつけ力を貸してくださって本当にありがとうございます。
 現在私が手掛けている事は、「フラメンコ熱風二夜二〇一〇〜お好み演芸会フラメンカ」の準備です。7月末の公演なので、会報が出るころには終わっていますね。フラメンコアーティストの3家庭が集い、6歳の子供から56歳の熟練のプロまでが舞台に上がって一芸を披露します。楽しくて親しみやすいフラメンコを、また浜松でも公演しようと思っていますので、機会があったらぜひご来場くださいませ。
 私は「万歳好き」。好きなものは、なんでもかんでも万歳です。これまたスペインでも同じです。スペインではよく、「我が町万歳!」「あなた万歳!」「あなたのお母さん万歳!」と皆で叫びます。  最後にスペイン語で叫びましょう。「!Viva Hamamatsu Nishiko!」

2010.07.20


 
 河村正隆(高23回)  寄席にどっぷり

 こんにちは!「ケイ企画」の河村です。って、知りませんよねえ。
実は、やらまいか大使の瀧川鯉昇(たきがわりしょう)師匠の浜松連絡事務所としてスタートした寄席演芸関係専門の芸能プロダクションです。
 鯉昇師匠=山下秀雄君とは2年の時に加藤先生のクラス、3年の時には三橋先生のクラスという具合に一緒のクラスでした。そして、彼は演劇部、僕は弓道部と部活は違えどもタイミングが合う時にはチャリ通の二人が乗らずに歩きで一緒に下校した仲だったのです。歩く方が景色をゆっくり見られるし、話しもゆっくり出来るものですから。(笑)道は、わざわざ狭い路地を選んで通っていました。
 20年ほど前に彼から「実家へ問い合わせの電話がかかって迷惑を掛けて困っている。」みたいな話しを聞き「それじゃあ、うちの会社の一回線へ電話を引こう。」というのが始まりです。
 私は、大阪芸大の建築学科へ進んだのですが、家の事情で二回生の12月に中退し、家業の関連会社(メーカーさん)の株式会社キトーという会社へ修行で就職しました。当時(昭和47年頃)は景気が良くてキトーも中途採用をどんどんしていました。入社してからも、毎日残業があり、休みの土曜日も出勤ということで、給料は残業無しに比べると2倍ありました。その上、日曜日は洗濯等で外出しないのでお金がどんどんたまりました。
そんな時に実は電車で一駅のところに山下君は貧乏学生で暮らしていたので、当然「裕福な河村」は、給料日には「慰問」に行った訳です。山下君達はと言うとその頃新聞紙で作った侍の鬘なんかで老人ホームとかへ「慰問」に行っていたような記憶です。(笑)なんか不思議な縁ですね!  浜松での落語会の運営はというと私がまだ浜松へ帰って来る前ですが、山下君と同じ部屋に暮らしていた山中忍君が代表者として始めた「雅落語会」が30年以上の歴史を誇ります。
その後、若くして逝った同級生の加藤謙二君の追悼落語会である「奥山落語会」がお兄ちゃんを代表者として始まり、河村が代表者の「浜松寄席」は平成9年からです。どの会も代表者は異なれどもスタッフメンバーは同じであります。(ほとんど西高同級生)毎月どこかで開催していますので、「浜松寄席の会」のHPをご参照ください。8月には「海演隊浜松公演」9月には浜松出身寄席芸人の会「うなぎのぼりの会」と頑張っています。  昨年から浜松出身女流講談師「田辺一邑(いちゆう)浜松後援会」のメンバーにもなってビジネス的にも個人的にも寄席演芸関係にどっぷり浸かっております。
 一月に「山葉寅楠オルガンを直す」(創作)で絶賛された一邑さんが、「いちゆうのヒトin浜松Vol.2」8月29日14時30分(かじまちヤマハホール8階)にて「フジヤマのトビウオ古橋廣之進」(創作)を演じます。皆様沢山のお運びをお待ち申し上げます。お問い合わせは、「ケイ企画」 電話(438)1863 河村まで。  最後になりましたが同窓会皆様の御健勝を祈念申し上げて筆を置きます。

2010.07.20


 
 山下時明(高43回)  自分の仕事の社会的役割を考える〜伴侶動物医療獣医師

 「仕事」という言葉は、とある書物では「仕える事=人のためにする事」と解釈されています。なるほどと思う反面、やはり自分のため、自分の家族のため、生活のため、そういった発想が自然であるとも感じますし、活力の根本となることは確かです。
しかし敢えて一歩ひいて(一歩進んで?)、自分の仕事の社会的役割を考えることは、様々な意味で困難が多いこの「仕事」という作業に、力を注ぐ(あるいは逃げない)ための理由付けになるのではないかと考えます。 そしてどのような仕事にも、社会的役割というものが必ず存在するものだと思います。
 私は現在、子供の頃からの夢であった伴侶動物医療獣医師となり、私なりに日々努力しています。
さて、私が携わる伴侶動物医療の社会的役割はどうでしょうか。人は心の豊かさを求めて動物と暮らし(動物好きな人に限ると思いますが)、ともに暮らす動物が病めば、人にも何らかの心の不利益を生じます。また人と動物の絆が社会的に福祉や医療に役立つことも次第に認識されつつあります。
したがって私の仕事は、伴侶動物の医療を通じて間接的に(結果的に)人のためになる=社会貢献となる仕事であろうと考えています。  
どのような環境の方であっても、人という生き物は自らに与えられた仕事(報酬の有る無しにかかわらず)に対する何らかの重圧に耐え、日々努力されていることと思います。とかく世知辛い世の中ですが、皆様のご活躍とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

〈略歴〉 1997年、酪農学園大学獣医学科卒業、同年、獣医師国家資格取得。 勤務医を経て2001年、真駒内どうぶつ病院(札幌市)開院

2010.07.20


 
 鈴木健吾(高43回)  「出会い」

 平成3年に西高を卒業し、進学先の群馬大学で待っていたのは、僕の人生を大きく変える出会いだった。それは『落語』との出会いである。
 なぜ出会ってしまったのか?そもそも高校時代まで落語とは一切縁のない生活を送ってきた。無口ではなかったと思うが、おしゃべりでもなかった。落語というものに興味があったわけでもない。出会いの原因は同じアパートの先輩。初めて一人暮らしで不安いっぱいの中、色々助けてくれた先輩が落研(落語研究会)に入っていて勧誘されたのである。この人の良い先輩のおかげでアパートの新入生人中、半数の8人が入会してしまった事を付け加えておく。
 そんなわけで自分から進んで入ったわけでもなかったのだが、いざやってみると、これが面白い。使えるのは言葉と仕草、扇子と手拭いの小道具だけ。これで笑わせたり泣かせたり感心させたりしなければならない。この人の心を掴み動かす事の楽しさや難しさにはまってしまったのだ。
年に2回ある公演会と大学祭での公演の他は、老人会や婦人会などに呼ばれての出前寄席、病院への慰問寄席などが主な活動だった。
特に見ず知らずの人が集まる老人会、婦人会、病院などは大変だった。お客さんの男女比や年齢層などから話すネタやお客さんを引き込む手立てを考えなければならないからである。そのかわりお客さんが大声で笑ってくれたり大きな拍手をくれた時にはこの上ない達成感があったものだった。
 現在は居酒屋という寄席に立ち、扇子を包丁に持ち替え、港に通い仕入れたネタ(魚)を調理し、言葉巧みに老若男女様々なお客さんに売り込む事を生業としている。毎日毎日が出会いの連続だ。見ず知らずのお客さんに話しかけ、料理や酒を売り込み、帰り際に「おいしかったよ」「楽しかったよ」この一言を言ってもらった時、そんなお客さんたちが沢山来てくれてお店がにぎわった時の達成感にはたまらないものがある。
 今、この舞台からは離れられそうにない。

〈略歴〉 群馬大学工学部を中退後浜松に戻り、ホテルコンコルド浜松、ベーカリーレストランサンマルクを経て、平成13年に(有)志磨に入社『談味酒家ふとっぱら』にて勤務をはじめる。
平成20年6月より(有)志磨より経営を引き継ぐ。現在「談味酒家ふとっぱら」代表

2010.07.20


 
 本郷道太(高43回)  ギターに魅せられて

 私がギターに興味を持ったのは、西高に入学してすぐのことでした。その頃は、戦前の北米の黒人音楽と、それらに影響を受けた60年代のロックばかり聴き、読む本と言えばロシア文学ばかりでした。
ステレオを買うお金を節約するためスピーカーくらいは自分で作ろうと、鉋や鋸を買ってきて独学で木工と音響を勉強し始めたのも一年の時でした。
卒業後何名かのギター製作家に弟子入りをお願いするも、全て断られたため大学に行きましたが、木工は続けていました。大学卒業後は手工ピアノの町工場で5年程勤めた後、初志に戻るべくギター製作家に弟子入りをし、1年程の修行の後に独立しました。
 ギター製作家になるまでに10年も遠回りをした格好ですが、その年間に得たものは、現在の私の支えであります。
 この仕事は忍耐力と集中力が要求され、地味な仕事です。また材料は最低でも数年は寝かさねばならず、先行投資となり経済的にも楽な仕事ではありません。所謂、家内制手工業という形ですが、この形態の利点は、コストという概念にそれほど縛られない点だと思います。
ギターも工場で大量に作られるようになって50年以上経ちますが、効率のためそれが良いギターの為には当然必要と分かっていながら消えて行った工程、工法が多くあります。それらを採用できるのはこの形態の強みだと思います。
 日々精進するしかない仕事です。私の死後もギターは残りますので、後に修理でバラされた時に、その職人から、こいついい仕事してるな、と思われればそれで充分です。

〈略歴〉 1996年旧大阪外国語大学卒業後、(株)シュバイツア技研に入社、2002年茶位幸秀氏に師事、2003年独立。

2010.07.20


 小田木基行さん(高22回)  浜松西高 万歳!

 昭和50年大学4年、まさに石油ショックで企業が募集活動をしなくなった時、広告代理店に憧れ東京で就職活動をしていました。私は理工学部でしたので卒業実験をしながらの就職活動でした。当時は「神田川」「同棲時代」がはやっていた頃です。のんびりしてたんだと思いますが、大手広告代理店の試験は終わっていて、あわてて面接に行ったことを憶えています。
 交通広告では歴史のある巴広告(今は存在しないかも)の役員面接でのひとコマ、「君の高校の大先輩で世界的な有名な人を知ってるか」と質間されとっさに誰も頭に浮かびませんでした。 「君は古橋廣之進さんを知らないのか?」と怒られました。恥ずかしいことですが雄踏町出身は知っていました我が西高の大先輩であるとは、知りませんでした。
 そんなこんなで東京の海外向け広告代理店で働き27歳のときに浜松に戻り、SBSプロモーションに転職しました。当社は静岡新聞SBSのグルーブ会社で広告、イベント、WEB、保険、旅行の業務をしています。浜松支社は地域活性化事業を柱に新聞告知、TV、ラジオの告知と番組づくり等の活動をしています。(広告のご用命は当社にちょっとPR)
 そして五年前、西高先輩から突然電話があり古橋広之進さんの旭日重光章受章記念祝賀会の演出、進行をやれと、そして2009年3月、文化勲章受章のお祝い会の実行委員として演出、進行もやらせていただきました。
水泳部OBの方々はじめ西高同窓会の結束と情熱に感激しました。古橋さんにもお逢いでき、就職活動での失態はカバーできたのではと勝手に思っています。
 私の今までと現在の仕事の紹介をさせていただきます。30代の頃は地域活性化事業として大型野外コンサートの実施等を担当しました。1988年渚園での「浜田省吾」、にはじまり1990年「米米CLUB・久保田利伸」、そして、BZ,TUBE、サザンオールスターズと2006年にはガーデンパークで「THE夢人島fes2006 (サザンオールスターズ他)」を開催、12万人(二日間)の来場者をいかにスムーズに気持ち良く退場して頂くかが私どもの仕事でしたが、一部には帰りが遅くなりご迷惑かけました。また地元の方々、警察署との調整も大切な仕事です。
 コンサートだけではなく、1998年「浜名湖開湖五百年祭」、2004年浜名湖花博浜松産業館E〜RA(イーラ)の基本構想から実施運営まで携わることが出来て光栄です。今は私の大きな財産となっています。打合せの時も地元の話題になり、なんとなく西高出身の匂いを感じ、出身校が同じと判ると嬉しくなることが度々ありました。しかも西高OBということで助けて頂いた事もあります、県外の方とお語すると、この地域は出身大学よりも出身高校のつながりの方が数段強く戸惑ってしまいますとお聞きします。(だから浜松が好きだと思っているのは私だけでしょうか?)<br>  スポーツ事業の話をさせて頂くならば、サッカーJリーグが発足した1992年の半年前に確か全国で一番早くラジオ番組「シュート・ザ・ワールド」(もちろんSBSラジオですが)を制作しそれに携わりました。サッカーの歴史、JリーグのPRと選手インタビューの番組内容で2年間くらい放送しました。
ジユビロが1994年にJ1昇格し破竹の勢いでJリーグを制覇して、ファン感謝ディ、優勝祝賀会など楽しい仕事を経験させていただきました。そして今「原点回帰」を掲げて強いジユビロに必ずや再生します。ご期待下さい。
 又、昨年プロバスケットのBjリーグ「フェニックス」が浜松市に本拠地を置き活動し始めました。当社も資本参加しスポンサー募集、PR、運営業務をしています。イースタンリーグでは擾勝しファイナルでは惜しくも三位になりました。今年10月から二年目が始まりますが「浜松・東三河フェニックス」の3ポイントシュートの醍醐味を是非、試合を見に来て体感してください。
 水泳、サッカー、バスケットとスポーツの事を書きましたが私は西高弓道部です。女性部員もいましたがれっきとした運動部と私は理解してました。野球の応援は運動部は免除と聞いていましたが弓道部は運動部ではないと言われショックでした。しかたなく文化部に混じって応援練習をやった憶えがあります。
 来年の2010年新春の集いは「その道(じんせい)を極める。」と聞きました。武道に関係しますのでこの機会に弓道部もOB会を立ち上げようと後輩に話をしたところ快く賛成してくれました。水泳部の大先輩からも大袈裟にしなくても、とにかく集まる機会を作ることとアドバイスを受けました。現在23回卒の河村正隆さん、25回卒の齋藤昌彦さんとはじめようと思っていますのでご協力下さい。
 最後に西高出身でほんとうによかった。 万歳!

(株)SBSプロモーション 取締役浜松支社長

 

2009.07.28


 溝口紀子さん(高42回) 「Magique des enfants こどもマジック」

 2007年末に、男児を出産した。36歳の初産はリスクを伴った、34週にいきなり妊娠高血圧を発症したのだ。肺呼吸ができる35週1日を待って帝王切開で出産した。後になって知ったのだが、どうやら妊娠高血圧発症、帝王切開の母親はこの時点でおちこぼれママと思う人も少なくないらしい。
産後、母乳育児を目指していたが、母子ともに初めてのせいか思うようにいかず、ある母乳相談室を訪ねた。「母乳はすばらしい。ミルクで育った子はキレル子になってろくな大人にならない。」といきなり一撃をくらった。なぜなら私の母親は母乳がでず私は100%ミルクで育ったからだ。さらに、私の職業を聞かれ、育児休暇をとらず、すぐに職場復帰しながら母乳育児をしたいというと、その助産婦は「あんたは帝王切開で無理やり子供だして、陣痛もしらないくせにすぐに働こうなんて最低な母親だね。どうせ母乳は無理だからうちに通う資格なし。」と追い出された。

 その時、母乳育児に強烈なフェミニズムを感じた。この一件で、「ミルク100%の私だって五輪で銀メダルを取れたんだから、陣痛もしらない落第母親だけど母乳で育て、仕事と両立させてみせる」と誓ったのである。科学が進んだ現代でも、育児論には、昔ながらの伝統や慣習に縛られていることが多い。そして、アラフォー世代のキャリアを積んだ女性にとって「できにくい、産みにくい、そだてにくい」の3拍子の現実社会を、身をもって痛感した。その中で、私が育休を取らずに仕事を続けたのは、職場や家庭の理解があったからこそだが、なにより自分の息子に、私なりの方法で誇れる母になりたいと思った。

 出産したときに、フランスの友人から贈られた言葉に「Magique des enfants こどもマジック」がある。こどものおかげで、人生のさまざまな場面で、今までうまくいかなかったことがよくなったり、窮地に助けられたり、何よりも人生そのものが輝きを放つという。実際、育児をしてわかったことは、育児には理屈では説明できないマジック(魔法)があるのだ。そして現在、子供と一緒に過ごす時間こそ私にとっての魔法の連続である。

溝口紀子さんのプロフィール
埼玉大学大学院教育学研究科修了(1997)、静岡県立大学短期大学部社会福祉学科助手(1997)、 バルセロナ五輪柔道52kg銀メダル(1992)、文部大臣賞スポーツ功労賞(1992)、埼玉県民栄誉賞(1992)、福田町民栄誉賞(1992)、静岡県知事特別賞(1992)、NHK静岡あけぼの賞(1998)、フランス・スポーツ省 柔道ナショナルコーチ(2002−2004)、静岡文化芸術大学文化政策学部国際文化学科講師(2005-2008)、現在、静岡文化芸術大学文化政策学部国際文化学科准教授(2009)、東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻相関社会科学分野博士後期課程在学中(2009)

 

2009.06.15


 中丸 隆さん(高42回) 「なぜ裁判官になろうと思ったんですか?」

「なぜ裁判官になろうと思ったんですか?」
 昨年夏に最高裁が実施した<夏休み親子見学会>。<裁判官への質問タイム>に登場した私が、子供たちから一番多く受けたのがこの質問でした。

 西高在学中、将来は法律家になりたいと漠然と思い始めた私でしたが、裁判官については、ニュースの法廷映像の影響で、「難しい顔をして座っている無機質で冷たい人たち」といった否定的なイメージしかありませんでした。しかし、司法試験に合格し、実際に裁判官から指導を受けるようになって、意外と気さくで温厚な常識人が多いことを知り、裁判官に対する印象は大きく変わりました。職員が裁判官を「さん」付けで呼んでいるのも新鮮な驚きで、想像していたよりも風通しが良く働きやすい職場だなあと思いました。

(余談ですが、法廷映像の撮影は、開廷前の約2分間に行われます。裁判官は、その間、じっとカメラに向かって座っていなければなりません。テレビカメラが入る事件は傍聴人の数も多く、法廷は緊張感がみなぎっており、裁判官がむやみに表情を崩すわけにもいかないので、どうしてもカメラをにらみつけるような厳しい顔になってしまうのです。裁判官は一般に「官僚的で冷たい」といった印象を持たれがちですが、裁判員制度もスタートし、実際の裁判官に接する市民が増えていけば、少しずつイメージも変わっていくのではないかと期待しています。)

 多くの当事者にとって、裁判を受けるのは一生に一度あるかないかの重大事です。私が指導を受けた裁判官たちは、当事者双方の主張や証拠を丁寧に吟味しながら、「この事件の真相は一体何なのか」「どのような解決が最も妥当なのか」を真剣に考え抜いていました。私は、そのような裁判官の姿に感銘を受け、裁判官を志望するようになりました。

「真実は神のみぞ知るという言葉がある。しかし、神様だけでなく、実は事件の当事者も真実を知っている。裁判官がその真実を見抜けなければ、負けた方は裁判に失望するだろうし、勝った方は裁判なんてチョロいもんだと思うようになるだろう。裁判官は事件を裁いているのではない。当事者から裁かれているんだ。裁判官になろうと思うなら、そのことを忘れないでほしい。」
 当時の指導裁判官の言葉が、今も耳に残っています。

「なぜ裁判官になろうと思ったんですか?」
 決して裁判官として一人前とはいえない私ですが、これからも子供たちの問い掛けを思い起こし、初心を忘れず謙虚な気持ちで頑張っていきたいと考えています。

中丸 隆さんのプロフィール
平成6年10月、司法試験合格。平成7年4月から2年間の司法修習を経て、平成9年4月に裁判官に任官(東京地裁)。その後、千葉家裁、東京地裁、仙台地裁を経て、平成20年4月から最高裁広報課に勤務。平成13年から平成16年まで約3年間、外務省に出向し、同省総合外交政策局国際平和協力室検事兼外務事務官、在ニューヨーク日本国総領事館領事を務めた。

 

2009.06.13


 倉橋義郎さん(高19回)   「考える」教育を目指して

 私が学習塾の仕事を始めて、早や40年近くになります。
学習塾というところは誰でも自分の考えで、自由に設立できますし自由に運営できます。私の場合は、生徒に分からないところを質問させたり、考えさせたりすることで進学を果たそうと考えて設立いたしました。その間たくさんの児童生徒とめぐり合い共に学んでまいりました。
 いま、日本における高校や大学の受験問題を見るにつけ、以前にも増してパターン化された出題が多くなっているような気がいたします。週休二日制やゆとり教育の影響で教科内容が削減さ、れ結果として出題範囲が狭くなっていることもそれに拍車をかけているようです。
そうなると受験生はこれに迎合する形で、語句やパターンの暗記をすることを勉強の中心におくようになります。こうして暗記力に優れた者がより偏差値の高い学校に通い、やがて社会の中心になっていく…手間暇かけず、深く考えもせず、結果だけを求める。こんな人間が増殖されているような不安を抱くのは私だけでしょうか。
実はこれと対極にあるのが、フィンランドで行われている比較や競争とは無縁の「考える」教育です。ではなぜフィンランドでそのような教育が行われているのでしょうか。それは第二次世界人戦後長い間当時のソ連に国の支配権を奪われ、厳しく自由を束縛されたという苦い経験をしてきたからだそうです。それを二度と繰り返さないために、彼らは子供達に「考える」教育を導入し、知恵ある子供に育て、知の力をもって国を守る方法をとったということです。まさに国をあげて取り組んだ結果なのです。
 人は「考える」時にも記憶します。脳内では記憶したものを使って答えを出そうとあれこれ試行錯誤を繰り返しやがて「分かった」という歓喜の瞬問をむかえ、考えが成就し終わります。慶応大学の佐伯昨教授は、「分かった」という感情は、脳内のいたるところに整合性ができた証なんだと語っています。「考える」ことは日常生活のなかで半ば無意識的に起こっています。会話も相手の言っていることや自分のしゃべった内容を一方で記憶し、一方でこの場で次に何をしゃべることが適切かと無意識に考えていますし、読書についても読んできた内容を記憶すると同時にそれを使って場面場面で無意識に考えながら読み進めていきます。
 私は、一昨年、縁あって大井川の河口近くの吉田町に通信制単位制の高校を設立致しましたがこの取り組みも先に述べたことの延長線上にあります。つまり、分からなかったところ、つまずいたところにまず立ち返りそれを暗記して終わらせるのではなく、極力自分の頭で考え納得して進んでいくことをモットーにしています。
 さて、教育界全体に目を向けますと教育制度やその仕組みなどについてはさかんに議論されますが、ここで述べた思考の重要性については話題にも上りません。教育の重要性については皆十分すぎるほど認識しているのですが、長い間続けてきた「教育」を変えていくことは、フィンラン下の例を見るまでもなく社会を変えるに等しい取り組みなのですね。
 国際化が現実のものとなってきました。こういう時だからこそ、暗記に頼って平均点を上げる教育を目指すのではなく、思考の重要性を加味した教育こそすべきだと思うのです。

倉橋義郎さんのプロフィール
    明治大学商学部卒業
    愛知大学大学院修了
    株式会社クラ・ゼミ代表取締役
    平成18年通信制・単位制高校「クラ・ゼミ輝高等学校」を設立。
    平成19年ブラジル人学校「イーエーエス」グループ5社の経営権を取得。

現在学習塾としては静岡県に29校、愛知県に17校の校舎を展開し、代表者として会社経営に携わりながら、一方で自ら教壇に立ち小中高一貫教育を実践している。

 

2008.08.21


 工藤幸徳さん(高39回)   ヨハネスブルグに赴任して

 朝陽に照らされる南アフリカの大地を初めて見たときの感動、広大な大地を前に、「自分に何ができるのだろう」と不安と期待を胸に抱いて3年前に赴任したのを今でも覚えています。
 私が日本人学校への勤務を考えたのは、海外の教育事情を知りたいという思いや日本文化との違いに直接触れることのできる喜びを感じたいと思ったからです。それ故、在勤中は、日本人学校での教育の充実を図るとともに、現地をより深く理解するための活動をしようと考えました。
 ヨハネスブルグでの生活で、まず目に飛び込んできたことは、日本と同様の交通渋滞でした。私の持っていたアフリカのイメージを払拭するかのような車の量、大きなショッピングモール、立ち並ぶ大きな家々・・・。
しかし、各交差点には物乞いをする人々、少し街を離れると壊れそうなバラックに住む多くの黒人・・・近代的な街とは対照的なその光景にも強く驚かされました。
 日本人学校では、海外にいながらにして日本と同等、もしくはそれ以上の教育を受けられる事がメリットと考えます。しかし、ヨハネスブルグの治安は現在、悪化の一途をたどっているため、子どもたちは自由に外を歩けないのが現状です。
犯罪件数は日本の百倍以上を記録し、日本人学校をはじめ各家庭には、高い塀の上にエレクトリックフェンス、窓には鉄格子がはめられています。
そんな中、子どもたちの運動する場の確保には、保護者からも強く要望がありました。そこで、土曜日に子どもサツカー教室を立ち上げることを保護者と共に行いました。活動開始時より多くの支援・支持を受け、赴任3年目の時には、日本人会のクラブとして正式に認められるほどになりました。
 また、私自身が、黒人居住区の子どもたちに将来の夢などをインタビューしたり、サッカーの指導を行ったりとより多くの子どもたちに触れ合う機会をとりました。
 さらに、大きな問題の一つであるHIV/AIDSについて、支援団体やエイズ孤児院を訪れる中で、お互いに助け合う姿を見たり、サポートグループのリーダーとして頑張っている人々に出会い話を聞いたりしました。南アフリカの格差のある厳しい現実を目の当たりにした驚き以上に、生活改善を目指し草の根で頑張っている現地の人たちが大勢いることも知りました。
 このような人たちとの出会いが国際交流を深めていく一歩だと感じるとともに、日本の子どもたちにも広く世界を見据える力を育成していけるよう努めていこうと思いました。

      (現在、浜松市立尾奈小学校教諭)
 

2008.08.21


 鈴木康司さん(高18回)   愛をもって打て!  スズキ コージ



 荒地派の詩人の田村隆一氏に鎌倉で三十年前に会ったとき、「静岡県は、二番手のB級県のところがヨロシイ!」と賛美のお言葉を聞いて、浜松西高と似ているなと思っていた。
 僕の西高時代は各個人の特性を生かして磨く精神の風が吹いていて、飄々とした先生や生徒が多く存在し、その一人が僕だった。
人間は十八才で進むべき道が決定し、それからは肉づけ、補強の人生になってゆくのだと、つくづく思う。
 この西高時代に「僕は一生絵を描いていくだろう」と確信した訳だからありがたい。
 当時実存主義かぶれの同級生の友人が「浜松城近くに竹内仙人という人が道場を開いているので今から逢いに行きまいか」と出かけていくと、役者の宇野重吉を若くしたような白髪のお爺さんが四畳半の板の間道場に居て、名刺をくれた。それには、「聖徳太子剣法秘伝」と書いてあり、すぐさま僕等二人は竹内仙人の弟子?になってしまい、浜松城下の広場で、木刀を渡され素振りの稽古が始まった。
 「敵を打つときは愛をもって打て!」の精神で木刀を振り下ろす時「アイッ」と叫び、足はタコ足で自由自在にあちこち走り回る剣法なので、真剣になればなるほどかなりおかしかった。けれどかなり熱い竹内仙人の指導の下、真面目に励んでいると、何事かとまわりに見物人が集まっていた。
 ある日、同じく弟子になった相棒の部屋でシャンソンのジュリェット・グレーゴなどのレコードを聞きながらコ一ラを飲んでいると白い麻のスーツを着た竹内仙人が突然やって来て「今から十五分座禅」と言われてこれが一時問位に思えてシビレテしまった。
 その後、竹内仙人は「君達さ、高校卒業後私の友人であるタイの皇太子経由でタイの山奥で(全世界に愛の鐘を打ち告げる塔)建設第一次派遣隊として送り出したいと思っているので考えてみてください」と告げて去っていった。
 (結局、僕等は卒業後東京へ向かったのだが)あの時僕等がタイに送り込まれていたら、どんな人生になっていったんだろうと考える。

スズキコージさんのプロフィール
創作絵本、画集、マンガ、映画や演劇のポスター、舞台装置や衣装、店の看板やマッチ箱、壁画など、幅広いジャンルで活躍中。
2007年浜松市より『浜松ゆかりの芸術家』として顕彰されている。

 

2008.08.09


 佐々木正夫さん(高7回)   ブラジルで夢を生きる



 澄み切った青空、果てしなく緑の山並が続くブラジルの大自然の中で、隣国ウルグアイの大海原のような大草原の中で、1個が25トンもある御影石の原石を時には数百個も石切り場で厳 しい品質検査をした上で買取り、それらを日本、中国、米国等に輸出する商杜を立ち上げてから25年、南米では唯一の石材輸出業者として毎日内容の濃い仕事にチャレンジしています。
こうして輸出された原石は日本、中国で加工され高層ビルなどの外壁や内装に使用されています。日本でも私が取り扱った石を使用した建造物も多く、みなとみらいランドマークタワー(横浜)、国際フォーラム(有楽町)、NHK(大阪)などのビルがあります。

 新しい石を求めて、アルゼンチンのパタゴニア地域、ボリビアのアンデス山脈の麓、アマゾンの密林等を歩く時に、西高時代の夢が今実現していることの幸福感に充たされます。

 また或る時には幸運の女神に微笑まれ、光学レンズメーカーが喉から手が出るほど必要としている希少金属がアマゾン上流にある錫鉱石の廃鉱山でその使用途がわからないまま、放置されていることを発見。 早速現地に飛び調査の結果、それが世界でも稀に見る高品質の鉱石、しかも水はけが良いので、滑走路、道路やサッカー場に使用されていたものを、日本の一流金属メーカーと契約、数年間に亘り、それを掘り返し、水で洗うだけで輸出。この話を聞いた日本の大手商社数社が駆けつけた時には後の祭り。アマゾンの大空の下でひっくり返って笑いこけたような出来事も南米ならではの 話です。

 日本向けの墓石用黒御影石を探して、アマゾンを横切り世界で一番高いエンジェルフォール(注・滝)のあるベネズエラのギアナ高原を横切りカリブ海まで数千キロを4駆で走り抜けるなど、仕事と夢を追いながらどんなに危険と思われる場所にでも入って行けるのも西高柔道部、その後、講道館で鍛えた頑張り精神のお陰でしよう。
南米にはまだまだ青春の夢を追って毎日新しい何かにチャレンジしながら生きることが可能な機会が数多くあります。
南米諸国では日本人は約束は守る、真面目だと言うことで非常に高い評価を受けています。日本人なら信用しようと言う人たちが非常に多いことも忘れてはなりません。また底抜けに明るく、楽天的で、人の良いのもラテンアメリカ人の特徴です。メキシコからアルゼンチンまで、ブラジルも含め全部スペイン語で通じます。スペイン語はローマ字が読めれば読むことが出来るので、日本人にとっては一番マスターし易い言語です。スペイン語を習得したら間違いなく、次はアンデスの峰に立って目の前に広がる南米の大草原に向け思い切り放尿するのが夢になる筈です。

 佐々木正夫さんのプロフィール

 上智大学スペイン語学科を卒業後、数年間東京の食品専門商社に勤務しましたが、安月給で苦しかったこと、南米行きの夢を棄てられなかったことから、1963年ブラジルに移住、現在に至っています。漫画家の水野良太郎君、野球の太田誠君とは西高で3年問ずっと同じクラスでした。一番お世話になったのは河合先生。一番苦手だったのは化学、物理の村石先生でした。
 

2008.08.07


 大石 健次さん(高9回)   教育の理想を追って、人間道場[立志館]を開設・運営



 38年間の教員生活を終え、若いころから夢見てきた理想の人間道場「立志館」を平成12年4月にスタートさせました。不登校の子どもらを救うための支援施設です。
昼間は、さまざまな理由で登校できない子どもたちが集まり自分で決めた学習をしながら人生の目標探しをしています。タ方から夜は、学校から帰宅した小・中学生が集まって学習しています。
立志館では、子どもたちの自主性を尊重しています。
各人が、本を読んだり、パソコンで調べたり勉強を教え合つたり、先生に教えてもらつたりと自分のぺースで学習しています。
立志館の教育が目指すものは人生の志を立てることにありますが、そのために、いのちの尊さを自覚させ、いのちへの使命感を感じさせることが大切と考えています。ひとつしかないいのちを大切にし、一度しかない人生を自分らしく輝かせてほしいからです。
 不登校の原因はさまざまですが、人間関係のトラブル、長期の病気欠席、遊びの誘惑、社会性の著しい欠如等々がキツカケになることが多いようです。
不登校に陥っている子どもに登校を促すことは必ずしも望ましいことではありませんが、しかしほとんどの親は、「なんとか登校してほしい、社会人として自立してほしい」と祈っていると思うんですよ。この親の祈りを受け止めて、立志館は在籍校との連絡を深め、学校生活に復帰できるように支援しています。
立志館を開設した最も大きな理由は、九十九人への教育を充実させることに全力投球しながら最も指導・援助を必要としている一人への指導をほとんどしなかつたことへの苦しい悔いの気持ちにありました。「一人を救えずしてどうして百人を救えようか」という思いが、極めて非効率な教育へと駆り立てたのだと思います。
この4月には立志館で義務教育を終えた中学生6人が高等学校へ進学しましたが高校生活をエンジヨイしているという便りを聞き、本当に嬉しく思っています。新年度も、10人の中学生と理想を追いかけています。

 私がまだ20代の頃、思師の導きにより、著名な哲学者と話をさせていただく機会を得ました。 「人間の主体性とはなにか?」が中心の話題でした。私は「思想である」と主張しました。その老哲学者は「君は若いねえ」と笑われながら「主体性は腰骨を立てることだ」と主張され、最後まで平行線でした。人間が人間らしく生きていくためには人間の生活の形を保つことが大切だと学びました。
朝になったら起き、朝食を食べ、目的をもつて外出し、夜になればぐっすり眠るという基本の形をとりもどすことが、不登校の子にとってまず大切だと思います。また、一日に30人くらいの人の顔を見ることも精神の安定に欠かせないと言われます。みんなでレストランヘ食事に出掛けたり、バスや電車で通うことを勧めたりしているのはそのためです。
 高度経済成長期に代表される戦後の教育においては、子どもたちの学ぶ意欲の源泉を競争意識に求めました。その結果、生活は便利になり豊かになりましたが、自己中心的な価値観が蔓延したことはとても残念です。残された日々、人の幸せに役立つことに喜びを感じる人間を育てるという教育の理想に情熱を傾けたいと思つています。
                   (平成19年5月9日インタビユーに応えて) 
 

2007.10.08


 佐藤 賢太郎さん(高52回)   レイモンド・W・ブロック記念作曲賞受賞

  現在カリフォルニア在住の佐藤さんは、さまざまなメディアジャンルで活躍中の音楽家である。

作・編曲家としてはすでに西高在学中から活動を始め、卒業後渡米。
現在では映画やTVの音楽も数多く手がけ、イギリスのフィルハーモニア管弦楽団をはじめ世界各地の音楽団体によって演奏・録音されている。

  芸術作曲家としてはオーケストラおよび合唱曲作曲で注目をあび、2005年米国で最も権威ある合唱音楽団体ACDA(アメリカ作曲指導者協会)より、レイモンド・W・ブロック記念作曲賞を受賞。

また声楽家・指揮者としてもロサンゼルス・フィルハーモニックやノースリッジ・シンガーズ等ともに、米国を中心に活動している。

さらに教育用の楽曲や教材の制作など、ジャンルを越えた音楽活動を行っている。

米国カリフォルニア州サンタモニカ・カレッジにて音楽と映画の学位を取得。
現在は、カリフォルニア州立大学ノースリッジ校にてメディア・コンポジションを専攻中。
佐藤賢太郎さんのホームページはこちら http://www.wisemanproject.com/

◇  ACDA作曲賞受賞作“KYRIE”が、浜松合唱団により日本初演されます。詳しくはお知らせのページをご覧ください。

               高26 伊藤 記   

 水野 良太郎さん(高7回)    トリビア系自営業の生きかた

  毎年、3月の卒業式シーズンになると、それは新たな生涯学習者の誕生なのだと、いつも思う。とりわけ私のような美術系の道を選んだ者は、 定年も無く、生涯学習者として、折々のエピソードを観察しながら作品を創って生計を立てるしかない。
  私は西高から武蔵野美術大学に進学した初めての学生である。3年のとき、グラフィック・デザイナーの登竜門と言われた日宣美展にポスターを 応募し、在学生で入選した第一号にもなった。それをきっかけに仕事が舞い込んで、美大を中退。以来デザイナー、漫画家、イラストレーター、 美術系専門学校の講師などの肩書きで約半世紀。イタリアの国際漫画賞を受賞し、スイスの漫画美術館にも作品が収蔵された。名誉に思うが、それ以上 に漫画の仕事が素晴らしいのは、人生の喜怒哀楽のすべてが原稿料になること。
  救急車で病院に搬送されても、好奇心が先立ってしまう。最新の医療機器、医師や看護師との人間関係を観察し、メモをとりスケッチすれば、仕事に 役立つ。それを元にギャグを作りドラマを仕立てて生活費を稼ぐのがこの道のプロである。肉体の苦痛も原稿料で取り返す。そんな訳で恐怖や不安さえ 笑い収入源。死んでも漫画家はやめられない。
  いつの間にか、趣味の翻訳書好きが高じて新聞の書評欄に寄稿や、言語学に関する新聞連載コラムも6年目に入り、好きな音楽雑誌のイラストは 10年を経過。NPO法人日本鉄道模型の会の理事であり、池袋の路面電車とまちずくりの会の委員でもある。今や肩書きはトリビア系生涯学習者の 自営業に進化し、「へェー」と言わせたくなる毎日が楽しい。

  水野 良太郎 氏 略歴
 漫画家、イラストレーター。社団法人日本ペンクラブ会員。著書に「漫画文化の内幕」(河出書房)など多数。


 石津 なをみ さん(高39回) 声楽家 シュツットガルト州立歌劇場オペラ歌手

 15歳で声楽を始め、奨学金を多た頂きながら理想の声を追い求め、自分の道を極めてまいりました。
 ドイツでの生活は早いもので丸10年を迎え、シュツットガルト州立歌劇場で、オペラ歌手として働いています。
劇場内は70%以上が外国人(アメリカ・東ヨーロッパ・アジアなど)で皆、常識が違うので自分の意見を通そうと思うと大変ですが、誠実なことと勤勉なことをモットーに日々臨んでいます。

 昨年夏には雄踏でリサイタルをひらき、大成功でした。その時の募金の中より、ドイツ製品のブドウ糖キャンディを寄贈できましたことは、今でも喜んでいます。故郷を想う気持ちは、どこに住んでいてもかわりません。
お送りする資料を見て頂ければ、私がどんな姿勢で取り組んできたか、きっと理解して頂けるかと存じます。お世話になった皆さんや、地域の人びとに自分の出来る範囲内で利益を還元するように心がけています。

    右は、留学中のプロデビューを伝える中日新聞です。
    そのほかにも故郷を大切にしていることをうかかわせる
    資料をたくさん送ってくださいました。
    残念ながらすべてを掲載するができません。




     来年の夏にはアクトシティのホールでの
    リサイタルを計画中です。
    どうか、ご支援頂けますようにお願い申し上げます。