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私の西山時代と太平洋戦争
平成18年は昭和に換算して81年となる。私の数え年も大正15年生れの81才であり昭和に換算した年と同じである。昭和15年のこと、従って私が数え年15才の時、当時の浜松一中(現浜松北高)の入試に2回目の失敗をした。(実は昭和14年に1回目の浜松一中の受験に失敗していた。)この2回目の受験の直前に鉄棒での「蹴上がり」に失敗して胸を強く打ち、小川接骨院(木戸町)に通院していた時、(もち論、受験に失敗してからも通院していた。)小川院長から「入試に失敗したそうだが、東京へ行くか?」と聞かれた。私も受験に2回も失敗し、失望していたので、浜松以外なら東京でもどこへでも行こうと決心し、小川先生にその旨お願いした。 そして浜松二中での編入試験の結果1年2組に編入された。当時担任だった佐藤喜由先生(故人)が「市川は東京のボロ中学では1番の成績だったと言うがここの学校ではそうはいかないよ。」と皆の前で言われた。私はこの言葉に刺激されて、一所懸命頑張った。そして学科も1番、剣道も3年生(現在の中学3年生)の時初段をいただき、文武両道に長けた生徒となることができた。そして実力試験もしばしば行われ、毎回1番だった。 試験は全国一斉に行われ、県内各一ヵ所の学校が試験会場となり、静岡県では、静岡市の静岡中学(現在の静岡高校)で行われた。私達「浜松二中4年生からは、脇本、岡野(旧姓鈴木)、と私の3名」は試験会場に近い長谷通り(静岡草深町)の長谷旅館に宿をとった。 |
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私の父は最初から「一人息子のお前が行かなくてもいいのではないか。」と私の兵学校行きに反対していたが私の合格の電報を見て、「お前がその気なら、反対しても仕方がない。賛成するしかない。どうかしっかりとご奉公して来なさい。」といい、当時長髪だった髪を床屋で坊主刈りにして帰って来た。その父を見て、私は、感涙にむせんだ。
昭和18年12月1日、入校せよ。との通知を受け、いよいよ江田島行きとなり、11月20日江田島の指定されたクラブ(海軍兵学校では、昔から生徒に外出時、休養をとり、寛いだ家庭的雰囲気を味わわせるため民家と契約して借り上げていた。)に集合した。 |
![]() 前列中央左が六浦校長先生、右が担任の高柳先生、後列中央が私(市川)、左が岡野(鈴木)君、右が脇本君、前列左端が鈴木文夫君、右端が刑部君、この2 名も同じく4年生から陸軍士官学校へ合格 |
| そして、今一度兵学校で最終の体力検査、身体検査が行われた。この検査で不合格になると、兵学校合格は取り消しとなり、そして郷里に帰される。帰される時の本人の気持ちを思うと何とも言えないものがあった。 因みに、我われのクラスの募集人員は、3,300人、そして受験者は30倍の10万人であったときく。当時(戦時中)の国内の風潮の一端がうかがわれる。最終的に合格し、入校を許されて、一ヵ月の入校教育と言って、基本的な海軍の規律訓練と日常生活の躾教育を受けるわけで、姓名申告と称して、上級生の前で、自分の出身校、姓名を大声で申告させられ、それを何回も、声がかれるまで繰り返させられたり、階段の2段飛びと称して、階段を登る時、一段おきに駆け登る等思いもよらぬことばかり。 1ヵ月の入校教育が終ってからの日常の訓練は戦局の悪化とともに益々厳しく、学科も、軍事学、普通学(数学、物理、化学、力学、英語等)も予定通り行われ、特に英語は当時敵性語として、全国的に廃止されたが、兵学校では益々力を入れて教育された。並行して、防空壕掘りも行われた。 昭和20年8月6日広島にあの原子爆弾が投下された。その時我われは、兵学校の講堂で軍事学の潜水艦の講義を受けていた。 8月22日、広島県の宇品港へ上陸した。そこで見たものは、原爆で被爆した人々を似の島(広島県)に送る夥しい担架の数であった。家々の屋根瓦はちょうど、鳥が羽根を広げたようにめくれあがっていた。広島駅は見る影もなく瓦礫と化していた。広島は今後50年は草木も生えないだろうと言われた。 海軍兵学校 [ Naval Academy ] 関連ページはここをクリックしてください。 |
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